こんにちは!
Machinakaです!!
この記事では、「クリード2 炎の宿敵」の小ネタ・裏ネタ、ラストを徹底考察・解説する記事となっています。
クリード2、かなり謎が多い映画となっていたと思います。ラストのアレで映画のメッセージは伝わったと思いますが、いまいち腑に落ちない点があるのではないでしょうか?
あと今作はロッキーシリーズを見ている人にとっては、懐かしの風景が満載でした。
ロッキー初心者の方にも、映画を見ていまいち腑に落ちなかった人も、これを見て満足してもらえたら幸いです。
なお、完全ネタバレありなのでご注意ください!!
ちなみに、映画の感想記事はこちらです。
目次
なぜ難聴の話が必要なのか?
まず一番気になったところではあると思います。
前作からですが、クリードの恋人であるビアンカの難聴の話にかなり時間が割かれている作りになっています。
映画ドットコムのレビューを見ると、「ノイズになった」「なぜ難聴の話が必要なのか?」など不思議に思う人もいると思います。
クリード、アポロ、そしてロッキー、ドラゴの話で十分にお腹いっぱいなのに、なぜ彼女の難聴も盛り込むのか?
監督のことですから、何か特別な意味をもたせたに違いありません。
海外サイトを読んでみると、ビアンカを演じたトンプソン自身は難聴ではありませんが、彼女の弟がビアンカと同じような進行性の難聴らしいのです。
また、監督としては難聴は「表現方法を豊かにするもの」とインタビューで答えていました。
いろんな意見ありますが、私なりの意見を言わせてもらうと、
ビアンカの難聴は今作をメッセージを象徴するものとして描かれていると思います。
今作は、「生まれながらにして十字架を背負ってしまった人たち」の物語なのです。
アドニスはアポロの隠し子という生きづらさが生まれた頃からのしかかっており、ドラゴの息子ヴィクターは生まれた頃から父が国辱扱いされている。
生まれながらにして、死ぬまで背負うものを持って生まれてきたのです。
そして、ビアンカの難聴こそ最たるものです。
いずれは聞こえなくなってしまう、大好きな音楽もできなくなってしまうかもしれない。でも、やりたくて仕方がないんです。それはアドニスでいうボクシングのようなもの。
クリード、ロッキー、ドラゴと男くさい話ばかりのところに、ビアンカのような華やかで儚い物語が入るのが、大変アクセント聞いていて素晴らしいんですよね。
ロッキーって、基本的に男ばっかで話進んでいくからね。
子供の遺伝を気にするシーンの意味
アドニスがやたらと子供の遺伝を気にするシーンがあると思います。
まぁ、親としたら当然心配するものですが、なぜあのシーンを強調したのでしょうか?
そして、ビアンカはなぜ冷静なのでしょうか?
先ほど説明しましたが、今作の主人公たちは生まれながらにして十字架を背負わされているのです。その十字架を受け入れるか畏怖するのか、それは人にとって様々。
ビアンカは最初から、自分の十字架=難聴を受け入れているのです。
しかしアドニスは、アポロを承服できないでいる。だから最後の最後になってしか、アポロの墓を訪れないんです。
クリードは十字架を背負うことを畏怖しているのです。だから、子供に難聴があるということは、自分が経験した重い重い十字架を背負わせているのと同じで、自分のせいで子供に苦しい思いをさせてしまうのではないか、と心配しているのです。
なぜ最後は「俺はアドニス!」じゃなく「俺はクリード!」といったのか?
地味に気になったので、考えてみました。
アドニスが戦う理由、それは「自分が何者かを証明するため」ですよね。最後の試合のシーンで言っていましたよね。
で、試合も後半に差し掛かると、「俺はクリード!」と言うわけです。
あれ?自分は何者か証明するんなら、「俺はアドニス!」って言った方がいいんじゃないかって思いましたよね。
多分前作までだったら、アドニスは「俺はアドニス!」って叫ぶと思うんですよ。でも、今回はアポロを完全に受け入れ、クリードというファミリーネームを声高に叫ぶんです。
ビアンカ・クリード、そして娘(メアニー・クリードでしたっけ?)、そしてクリード家を背負って生きていくこと宣言した瞬間でもありました。。
もうここも男泣きですよ本当に。
ロッキーの家にあるもの
ロッキーが住んでいる家は、フィラデルフィアで過去にエイドリアンとポーリーが住んでいた家だと思われます。
あの高架下を何回見たことか、、
ちなみに、室内に水槽がありますが、あれはロッキー1でエイドリアンがまだペットショップで働いていた頃、ロッキーがその店で金魚と水槽を買ったことの名残だと思われます。
今回はかなり直接的にエイドリアンを見せますけど、そんなことしなくてもあの水槽を見るだけでこっちは泣いてしまうのです。
ロッキーはなぜ息子に電話をかけれない?
ロッキーの息子となかなか電話しない、会おうとしないのは、のっぴきならない事情があります。
それは、ロッキーとしてでなくスタローンの物語として説明する必要があります。
スタローンの息子セイジ・スタローンさんは、ロッキー5に出演し子役として注目を集めます。
しかし、セイジさんは2012年に亡くなってしまいます。彼は家に引きこもり、スタローンともギクシャクしていたそうです。
もう、リアルロッキーなんですよね。
実際の息子が死去し遠ざかってしまったことを、映画では音信不通となっているわけです。メタファーです。
ロッキーファイナルでは仲直りしたと思いきや、クリードでは遠くに行ってしまったのは、スタローンの実の息子との関係があったからなんですよね。
話を戻すと、彼にとって息子に会うというのは、映画でさえも非常に辛いことなんです。極力会いたくないのです。
しかし、最後の最後で息子と再会し、本当に良かったですねぇ。。。
ビアンカの服
地味な気づきですが、最初にヴィクターと戦ったときのビアンカの服装が、1985年のロッキー4でドラゴと戦っている時に来ていたメアリー・アンとソッックリでしたねww
あれ、おそらく狙っただろうなあ、、、
なぜドラゴは「妻を失った」と言ったのか
ドラゴがロッキーでエイドリアンズで話しているシーンで、「俺は何もかもなくした」と言い「妻も」と吐き捨てるシーンがあると思います。
実はドラゴの妻役を演じたブリジット・ニールセンは、ロッキー4の撮影後、スタローンと結婚してたんですよねw
だからロッキーは、ドラゴの妻を奪ったことになるという、何とも皮肉めいたセリフなんですよねww
最後のタオルの意味
タオルを投げて試合は終了します。
もはや言う必要はありませんが、あれはロッキー4でロッキーが投げれなかったタオルを、ドラゴが投げたという対照的な構造になってるんですよね。
あのタオルにいろんな考えを巡らせることができますが、私としてはタオルを投げ入れるのは本当に正解だなぁと思うわけです。
タオルのラストで非常に腑に落ちないかもしれないですが、タオルをかけなければ息子がクリードに殺されてしまうかもしれない。
そう心配したんです。
そして、いまだにアポロを殺してしまったことに対して非常に申し訳なく思っているわけです。
もちろん、息子を救うことが一番大事でしょうが、あのタオルを投げることによってドラゴはスタローンも救おうとしたんだと思います。
ロッキーとドラゴ。どこか非常に共通点があるというか、どっちも寂しそうなんですよね。
過去に囚われ続けているのです、二人とも。
そして、ドラゴがタオルを投げた意味は、もう一つあると思います。
タオルを投げたのは、試合終了のためだけでなく、ロッキーに対してタオルを投げたのではないでしょうか?
これからクリードの物語が中心となり、トレーナーとしての活動を終えいよいよ出番がなくなるロッキーに対し、同年代のドラゴがタオルを投げ「お疲れ様」と言っているような気がしてならないのです。
あのタオルで、二人の人生が変わってくれることを祈ります。
簡単でしたが、これにて御免。