短評
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「家族を想うとき」
ケン・ローチ最新作ということで鑑賞。
現代社会が生んでしまったワーキングプアの実態を、一つの家族を題材に描いていく。
日本でも浸透しているギグ・エコノミー(インターネットを通して受発注するビジネス)の実態と恐ろしさを痛烈に感じることのできる傑作である。
あらすじ
「麦の穂をゆらす風」「わたしは、ダニエル・ブレイク」と2度にわたり、カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞した、イギリスの巨匠ケン・ローチ監督作品。現代が抱えるさまざまな労働問題に直面しながら、力強く生きるある家族の姿が描かれる。イギリス、ニューカッスルに暮らすターナー家。フランチャイズの宅配ドライバーとして独立した父のリッキーは、過酷な現場で時間に追われながらも念願であるマイホーム購入の夢をかなえるため懸命に働いている。そんな夫をサポートする妻のアビーもまた、パートタイムの介護福祉士として時間外まで1日中働いていた。家族の幸せのためを思っての仕事が、いつしか家族が一緒に顔を合わせる時間を奪い、高校生のセブと小学生のライザ・ジェーンは寂しさを募らせてゆく。そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれてしまう。2019年・第72回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。
ネタバレありの感想と解説
死ぬまで働かざるを得ない
前作「私はダニエル・ブレイク」では働けなくなってしまった老人が事故で怪我をしてしまい、働けなくなってしまい、生活保護を受給しようとするも、現代のネット社会やイギリス政府の対応に苦しむ映画である。
そして今作のリッキーも同様に、事故で怪我をしてしまう。しかしリッキーは、怪我をしても働こうとする。
建物に落書きをするシーンが象徴しているように、今作は前作「私はダニエル・ブレイク」との共通点が多く、比較してみるとケン・ローチのメッセージが理解しやすい。
ただし、今作の方が過酷で、救いようのない物語になっているのが特徴である。
なぜなら、ダニエル・ブレイクは怪我により働けないことを素直に認めるが、今作の主人公リッキーは、怪我をしてでも働こうとするのだから。
ダニエル・ブレイクよりも相当に過酷な状況に主人公を設定したケン・ローチ。イギリスの労働者に未来はあるのか? 切に考えさせられる映画だった。
自分が完全に動けなくなるまで、死ぬまで働かざるを得ないリッキー。
今作はヒューマンドラマに分類付けされるのかもしれないが、私にとってはホラー映画のようにも感じた。
ギグ・エコノミーとフランチャイズの合わせ煉獄
なぜリッキーはここまで働こうとしたのか?
まず挙げておきたいのが、フランチャイズ契約。
主人公リッキーの仕事は、配送会社PDFのフランチャイズを、個人事業主として請け負っていたのである。
正社員じゃないため、会社の福利厚生を受けることはできない。
PDFのシステムやサービスを使って、あくまで個人の利益として働く必要がある。
個人事業主はフリーランスとも言い換えることができる。フリーといえば聞こえがいいが、リッキーはフランチャイズ契約を背負ったフリーランスである。
つまり、フランチャイズ契約した企業から多くの制約事項を設けられ、実質的にはフリーに仕事できないようになっている仕組みであり、力関係も企業の方が圧倒的に上である。
仕事を休んだら違約金が発生し、貸与されたデバイスを壊したら保険適用されず弁償する必要があり、何か事故があればリッキーが企業にお金を支払わなければならない。
働けど働けど、お金が減っていく。フランチャイズ契約の恐ろしさはここにある。
二点目は、リッキーの配送業がギグ・エコノミーによって担われている点。
ギグ・エコノミーはインターネットで受発注する業務形態のことを差し、従来の売買契約よりもスムーズに、そして大量に請け負うことのできるビジネスである。
配送業のリッキーは会社から顧客の情報をもらうのではなく、顧客から直接荷物の受け渡しを受注し、個人事業主として行動する必要がある。
そのため、顧客からのクレームや荷物の破損などは、全てドライバーであるリッキーが背負うことになる。会社からの支援は一切ない。
日本では、「ウーバーイーツ」を思い浮かべると分かりやすい。ドライバー個人が食料を運ぶだけで、会社は一切介入しない。客からのクレームも、商品の破損も、全てはドライバーの責任にある。
企業は社員として雇用するコストを抑えながら、社員と同様に労働者に指令できる。何か問題があった場合も企業の責任ではなく、個人事業主の責任とすることができる。
企業にとってはいいことづくめしかない。
リッキーは、フランチャイズ契約とギグ・エコノミーの合わせ煉獄によって、死んでも働かざるを得ない状況に追い込まれているのだ。
誰も守ってくれない、社会的孤立の恐ろしさ
今作のもう一つの特徴は、リッキーが孤立していることにある。
と言っても家族と同居しているし、何を持って孤立とみなすのだろうと疑問に思うかもしれないが、彼は社会的に孤立をしている。
フランチャイズと言っても、コンビニのオーナーのように従業員を雇うわけでもなく、一人で仕事をしているリッキー。
仕事について誰にも相談できず、自分が休んだ代わりに他の労働者を見つけることも難しい。
リッキーは常に、一人で社会と立ち向かっている。個人事業主であるがゆえに、またフランチャイズであるがゆえに、孤立しながらも重労働を課される。
これを囚人と呼ばずして、何というか?
個人的にはリッキーのことを、ワーキングプアよりもさらに過酷な、ワーキング・プリズナーと呼んだ方が、今作の趣旨に合っているのかもしれない。
働けど働けどお金が減るワーキングプア。しかしワーキングプアは、仕事を辞めるという選択肢がある。
しかし今作のリッキーは、フランチャイズ契約によって容易に仕事を辞めることができない。まるで囚人のように働かされているように感じた。