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映画「劇場版 アーヤと魔女」ネタバレあり感想解説と評価 スタジオジブリを、ぶっこわぁーす!反骨精神溢れる反魔女映画

 
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この記事では、「劇場版 アーヤと魔女」のネタバレあり感想解説記事を書いています。
 
 目次
 

まえがき

 

 

今回批評する映画はこちら

 

「劇場版 アーヤと魔女」

 
 

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(C)2020 NHK, NEP, Studio Ghibli
 
 
思わずため息が漏れてしまう。

 

ジブリ最新作品という宣伝文句、宮崎駿の満面の笑みによる紹介、過去作を詰め込んだ予告。

 

今作に絡む全ての宣伝媒体が、気持ち悪い。

 

ジブリブランドの維持管理のために作ったとしか思えない、よくも分からぬ魔女アニメ映画。

 

予告編ではちっとも心に刺さらなかった。

 

ラジオで宮崎五郎の話を聞いたことがあるのだが、その内容が衝撃的だった。

鈴木Pから依頼され、半ば強制的に監督をしていて、作品を作るやる気はあまりないらしい。何より彼の声に、全く覇気がなかったのが印象的だった。

 

観る前から悪口を言う必要はないが、どうにもこうにも気に食わないのだ。

 

是非とも、そんな私の気持ちを良い意味で踏みにじって頂き、ジブリの素晴らしさを教えて欲しいものだ。

 

それでは「劇場版 アーヤと魔女」ネタバレあり感想解説と評価、始めます。

 

 

 

 
 

あらすじ

  
「ハウルの動く城」の原作でも知られるダイアナ・ウィン・ジョーンズの同名児童文学を、スタジオジブリが同社初の長編3DCGアニメとして映像化。1990年代のイギリスを舞台に、自分が魔女の娘とは知らずに育った少女アーヤが、奇妙な家に引き取られ、意地悪な魔女と暮らすことになる姿を描く。孤児として育った10歳のアーヤは、なんでも思い通りになる子どもの家で何不自由なく暮らしていたが、ベラ・ヤーガと名乗るド派手な女とマンドレークという長身男の怪しげな2人組に引き取られることに。魔女だというベラ・ヤーガは手伝いがほしかったからアーヤを引き取ったと言い、魔法を教えてもらうことを条件にアーヤはベラ・ヤーガの助手として働きだすのだが……。宮崎駿が企画し、宮崎吾朗が監督を務めた。主人公アーヤの声を若手女優の平澤宏々路が担当するほか、寺島しのぶ、豊川悦司、濱田岳らがキャストとしてそろう。2020年・第73回カンヌ国際映画祭のオフィシャルセレクション作品。2020年12月30日にNHK総合で放送。2021年には、テレビ放送版に一部の新カットなどを追加した「劇場版 アーヤと魔女」として劇場公開。

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「劇場版 アーヤと魔女」のネタバレありの感想と解説(全体)

 

 
 
 
 
 

 

意外すぎる満足度の高さ

自分でも驚いているのだが、思ったよりも楽しめた作品。

 

とりあえず映像と音楽が流れれば良いかな?くらいの気持ちで鑑賞に臨めたことが、何よりの勝因だろう。

 

魔女の子どもとして生まれたアーヤ。生まれた直後に孤児院に預けられるも、しぶとく強く生きるアーヤの元に、「主食はコーラです!」と言わんばかりのふくよかな魔女が現れる。

アーヤを連れて行った魔女は、彼女をあくまで雑用役として家に入れる。

その後、アーヤは魔女見習いとして働くことを希望するが、魔女は全くもって魔法を教えてくれない。

そんな中、魔女と共に暮らすマンドレイクという魔法の実力者に目を付け、彼を利用して魔女見習いになろうとするのだが、、

 

というのが今作の筋だ。

 

読めば分かる通り、アーヤは初めから魔女ではない。魔女に憧れ、魔女の娘であることに違いないのだが、とにかく彼女には才能も才能を開花させる場所さえも与えられてない。

 

「魔女の宅急便」のように、最初から魔女になり空を飛ぶ話ではない。

かといって、魔女見習いが魔女になるカタルシスを得る話でもない。

 

普通の女の子が、魔女見習いになるだけの話になっているのだ。

だから観賞後に大きなカタルシスはあまり生まれない。

アーヤに感情移入も可愛さのカケラも感じられなかった。

 

が、最後まで観ることが出来た。観れてしまった。

 

というよりむしろ、、

 

...(そこそこおもちろかった)

 

というのが本音だ。

 

 

 

 

 

 

スタジオジブリを、ぶっこわぁーす!!

 多分、意外にも面白かった理由は、今作がスタジオジブリ作品の逆を意図的に突き進むような反骨精神に溢れた作品に思えたからだと思う。

 

アーヤ激推しマニアには申し訳ないが、率直にいってアーヤは意地が悪い。

 

幼い頃から孤児院に入れられて、魔女からもぞんざいに扱われて可哀想なのな間違いないが、たいていの主人公が持つべき純粋な精神を持ち合わせていない。

 

人生の酸いも甘いも経験してきたような、それでいて意地の悪い、おばさんみたいな幼女が主人公。おまけに可愛くない。

 

これは客が入らないはずだ。全てジブリとは正反対のキャラクター造形なのだがら。

 

だが視点を変えてみると、今作は吾郎の反骨精神が溢れる作品に思えて仕方がなかった。

 

物語もビジュアルも何もかもが中途半端なのに、何かテーマがないと作品など作れるはずがない。だから私は、今作に

 

「ジブリへのアンチテーゼ」が込められてるように思えて仕方がなかった。

スタジオジブリを、ぶっこわぁーーす!そんなスローガンが吾郎のデスクに貼られていたのかもしれない。

 

ユーミンの壮大なBGMが流れる代わりに、パンクロックなバンドの楽曲が流れる。しかも歌っているのは、魔女たちとマンドレイクで結成したバンド。もう何から何までジブリとは違っている。

今作は徹底してロックなのだ。吾郎の反骨精神が込められているに違いない。

 

何より、アーヤが魔法を使いたい原動力が何とも酷い(褒めている)

 

児童相談所に行けば即アウトなレベルでアーヤを虐待する魔女。アーヤは魔女への復讐心から、魔女を苦しめる魔法を研究し始める。

空を飛びたい、みんなの力になりたい、そんな願望は一切持ち合わせていない。純粋な復讐心が、アーヤを突き動かしているのだ。

 

魔法を掛ける時も、まるで丑の刻参りのようなやり方で魔女を責め立てる。

魔女になりたいという、そもそもの願いはどこへいった?

誰かを傷つけることは、悪いと思わないのか?

 

アーヤは聞く耳を持たず、今を生きるためにシブとく強く生き抜いていく。まるでアーヤは両津勘吉だ。

 

普通の少女が魔女を目指すことって、こんなものなのか?

夢や希望も一切なく、ただ自分を苦しめてきた魔女に復讐をするアーヤに、既存の(少女の)魔女像を破壊したいという吾郎の反骨精神がうかがえた。

 

個人的には、アーヤは吾郎自身だと思う。

 

そもそも、ジブリ作品を自ら好んだ訳じゃない。ランドスケープデザイナーとして活躍し、鈴木Pの饒舌にそそのかされてジブリ美術館の仕事に就いたのが、ジブリと彼との関わりだ。

吾郎もアーヤと同じく、誰かに連れてこられた存在なのだ。

 

宮崎駿に「やる気があるのか!?」と怒られ、辛いこともあったろう。もうジブリを辞めたいとも思ったろう。そんな怒りと憎しみが、アーヤの性格にも込められてる気がした。

 

 

 

 

まとめ

あくまで予想より面白かったと思っただけで、絶対的な評価は低い。

 が、今作を観て何かを感じ取ったのは、嘘じゃない。

 

特に、エンドロールで流れる手書きのキャラクターの魅力が凄まじく、本編では泣けなかったのに、ここでは泣いてしまった。

これは、本編で流れているCGが完全に負けている証拠に他ならない。

あれだけ時間をかけて見ていた本編は、いったい何だったのだろうか?

今までの時間を返してくれと思った瞬間でもあった。

 

とりあえず、次のジブリ作品も足を運ぼうと決めた。

 

70点 / 100点 

 

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