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映画「ドライブ・マイ・カー」ネタバレあり感想解説と評価 村上春樹はブレーキを、濱口竜介はアクセルを踏んだ

 

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この記事では、「ドライブ・マイ・カー」のネタバレあり感想解説記事を書いています。
 
 目次
 

まえがき

 

 

今回批評する映画はこちら

 

「ドライブ・マイ・カー」

 
 

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(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

 

濱口竜介監督の鑑賞履歴は配信で見れた「寝ても覚めても」 のみ。

 

 

たった1作品の鑑賞だが、それでも濱口竜介の常人離れした映画文法を辿るには十分なクオリティだった。

画だけを見ると何も起きてない、きわめて「静的」な印象を受けるが、実際は胸を裂かれるような激しい「動的」な映画となっている。

この感覚は、映画を観ている人にしか分かり得ない。映画でしか起こり得ないマジックを連発する監督なのだ。

 

今回はあまりにも前評判が高く、なんとカンヌで脚本賞を始めとした4冠を獲得している。一体どんな作品に仕上がっているのだろうか。 

 

実は、今回は一般公開前に先行上映に出向いた。鑑賞後には監督と主要キャストの挨拶も付いており、なんとも幸せな上映会に参加せてもらった。

そんなご縁もあって、いつもよりも丁寧に、いつもより濃い内容で記事を書いていきたい。

 

本ブログは映画公開当日にアップ予定で、今作の特性上、ネタバレありで書かせてもらう。まだ映画をご覧になってない方は、また鑑賞後にご覧頂きたい。

 

それでは「ドライブ・マイ・カー」ネタバレあり感想解説と評価、始めます。

 

 

 

 
 

あらすじ

  
・村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を、「偶然と想像」でベネチア国際映画祭銀熊賞を受賞した濱口竜介監督・脚本により映画化。舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。主人公・家福を西島秀俊、ヒロインのみさきを三浦透子、物語の鍵を握る俳優・高槻を岡田将生、家福の亡き妻・音を霧島れいかがそれぞれ演じる。2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、日本映画では初となる脚本賞を受賞。ほか、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞の3つの独立賞も受賞した。

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「ドライブ・マイ・カー」のネタバレありの感想と解説(全体)

 
 

 
 
 
 

これぞ濱口竜介の真骨頂!未だかつて見たことのない傑作

 
一体何から魅力を説明すればよいのだろうか。
映画を見る前に、今作に飛び込んできた情報といえば、カンヌで脚本賞を含む四冠を獲ったこと。
予告を見る限りでは、赤い車に乗り込む西島秀俊と無粋な表情をした若い女。
一体全体、どんな内容か見当もつかない。何より、なぜ賞を獲ったかも分からない。
 
そんな未知の集合体のようなフィルムを鑑賞したのだが、鑑賞後にはそんな疑問も杞憂に終わっていた。
 
妻を失った西島秀俊演じる家福は舞台の役者・演出家。
 
チェーホフの戯曲「ワーニャ叔父さん」を基にした舞台の製作中に、三浦透子演じる女ドライバーみさきと出会う。
 
一方で、家福の演出する「ワーニャ叔父さん」のオーディションを受ける高槻。彼は家福の妻であるとただならぬ関係にあった。
 
今作は家福、みさき、高槻を中心とした、互いが互いの人生=人間を知っていく物語である。宣伝ではヒューマンドラマとあるが、そんなありふれた言葉で片づけたくない。
 
今作はヒューマンドラマでなく、人を知る物語だ。
 
 
家福とみさきが車内で関係を深め合うのも、舞台で高槻をはじめとした役者たちと交流するのも、韓国人のプロデューサーと友好を深めるのも、全ては人=他者を知るために設計されている。
 
その過程で、他者という存在の面白さとおぞましさを目の当たりにする。
濱口竜介の作品は常に、危うく不安定な他者との遭遇によって映画が立ち上がっていく。
 
「寝ても覚めても」では主人公の朝子と麦・亮平のような関係が、今作では家福と音・高槻の関係に置き換えられている。
 
他のロードムービーでは、家福とみさきの二人のみで車と物語を走らせていくだろう。
しかし、ここに高槻が加入することによって、観る者すべてを濱口ワールドに引きずり込む。
 
冒頭、妻の音が話す「ヤマガ」なる人物が主人公の物語も、高槻の口添えによって立体的になる。そして何より、高槻と音の関係の謎こそが、今作の吸引力の要となる。
 
写っている画は、ただただ車を走らせたり、舞台の練習をしているだけに過ぎない。
しかし、家福・音・高槻のただならぬ人間関係や、ただならぬ空気を放つみさきの過去など、劇中は常に疑問符で満たされる。
 
こうした疑問符の設置によって、「人を知る」こと自体に映画的な快楽が伴う。
あまりにも静かで、何も起きないように見えて、実はただならぬ「何か」が立ち上がる。濱口作品は、この立ち上がった瞬間を切り取るのが本当に上手い。そして、映画的に面白い。
 
村上春樹の短編やチェーホフの戯曲など、著名な作家の作品がふんだんに使用されいてるのだが、結果として濱口作品の一部として機能する役割に徹している。これがいかに素晴らしいことか。
 
著名な作品を引用することで、あえて濱口作品の絶対的な独自性・独創性が担保されているように見える。まぎれもなく、今作は濱口竜介の作品なのだ。
 
従って今作は、多くの作品を引用しつつも、未だかつて見たことのない傑作になりえるのだろう。
 
練りに練られた脚本と役者の演技のアンサンブルを、是非とも堪能してほしい。
全てのキャラクターが素晴らしいのだが、特筆すべきは岡田将生。
 
高槻の危うく不安定な存在は濱口作品にとって必要不可欠で、個人的には裏回しの主役のようにも思える。
彼がサーブに乗り込んできた時は今作の最大の見せ場で、彼が語る「ヤマガ」の物語によって、映画に更なる謎と恐怖を植え付ける。
 
よくよく考えれば、ただ岡田将生が車に乗り込んでくるだけなのだ。しかし、映画を見ている人にとっては、ただならぬ光景に驚くしかない。
 
ただ画を眺めるだけでは伝わらない。
あのシーンは、映画を見る人にしか理解できない。
あの時、映画に魔法が掛かっていた。
 
 
 

映画の原初的な感動を呼び起こす

 
 
基本的には、この2人の男女が家福の所有する赤いサーブに乗り、舞台の練習場から家福の滞在先までドライブするのが総カットの多くを占める。
 
しかし、このドライブで繰り広げられる会話劇は、映画の原初的な感動を呼び起こす。
 
そもそも、映画とは何か。
当然ながら、一枚の画が連なることによって動いて見える表現に他ならない。
「映」という言葉は単に画を投影するだけの意味合いで取られがちだが、映画は画を動かすことで本質的な役割を果たす。
その証左に、英語では「Motion Picture」や「Movie ( Moveの名詞化)」など、動くことを主たる語義とする言葉によって、「映画」が構成されている。
 
少し話題が今作の外側に寄り道してしまったが、今作はドライブによって揺れ動く画と会話という必要最小限の要素で、映画としての最大限の効果を発揮する、最高純度の映画が生まれているのだ。
 
最初は全く会話も心も弾まない二人。喋ることも身体を動かすこともしない。ただ運転席と助手席に座っている二人、それだけだ。
 
濱口監督は、決して急がない。二人が話し出すまで、ただひたすら待つ。都合よく時間を詰めたり、ナチュラルに会話できるよう仕組んだりはしない。
 
このままだと画が止まったままで何も生まれない。しかし、車が映画を動かし続けてくれている。
殺風景な人間の所作に対して、瀬戸内の美しい夜景が映画を彩る。
動かない人間を動く車窓が補完するように、一体となって映画に生命を吹き込んでいく。
 
車の走行距離が増えるのとは正反対に、次第に距離が縮まっていく家福とみさき。
家福と同じように、実はみさきも大切な何かを失っていることが発覚する。
 
この時、二人の中で「何か」が立ち上がる。
この奇跡の瞬間に立ち会えるのが、濱口竜介の映画を見る必要十分な理由だろう。
 
そして、2人が運転する車の終着点はどこなのか。二人は何を目撃するのか。
 
そもそも、タイトルの「ドライブマイカー」の意味とは何なのか?
 
全てが繋がった時、あなたは一生に一度の感動に出会えるだろう。
 
これから解説していきたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
※ここからは今作に関する重大なネタバレが含まれます。ご注意ください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

失った者たちの人生道中

 
今作の最大の特徴は、メインキャストがいずれも誰かを「喪失」している点。
 
家福と高槻は音を亡くし、みさきは母を亡くした。
 
失った3人が、一台の車で何かを見出す物語なのだ。
 
ロードムービーでは、何かを失った人間が生きる気力を見出す物語であることが多い。
 
今作も、家福とみさきに絞れば、この設定だけでロードムービーのプロットの出発点となる。
 
しかし、そこには高槻も存在していた。彼も音を失った立場として登場する。
 
この3人が失ったものを取り戻す、、的な展開にはならない。
 
先に伝えた通り、今作は「人を知る」映画だ。
 
この点が、脚本に絶妙なスパイスを与えている。人それぞれに事情はあるが、他者の気持ちを理解することは難しく、時には衝突もする。
 
今作はあくまでもドライに、三者三様の価値観を提示する。失ったことによって、人の本性が垣間見えるのだ。
 
 
 
 

 

赤いサーブの正体とは?

 

そんな3人が乗る車だが、なぜ1台の車に集う必要があったのだろうか。

 

そもそも、なぜあそこまで車に執着する必要があったのか。

 

結論から言うと、赤いサーブは音そのものだ。

 

原作者である村上春樹の観点から考えると、彼の世界の中では車や電車は一種の「棺桶」として捉えられている。 

 

「風の歌を聴け」や「ノルウェイの森」などでも、乗り物を棺桶として比喩している作品がある。

 

 巨大な棺桶のようなグレイハウンド・バス

 

棺桶みたいな電車

 

この村上春樹の文法に合わせると、今作の赤いサーブは棺桶の意味も兼ねている。

  

家福がさらっと「大きな故障ひとつ起こしたことない」と言うが、これは夫婦生活のメタファーだろう。

特に大きなケンカもなく、円満に過ごしてきた二人の様子は、手入れが行き届いた赤サーブに込められている。

 

また、赤サーブには音の存在感が色濃く出ている。

一番分かりやすいのが、カセットテープに流れる音の声だ。

「ワーニャ叔父さん」のセリフが収録されたカセットテープ。西島秀俊が演じるはずだったワーニャの声だけを抜いて、それ以外は音が喋っている。

 

車全体に音の声が響き渡る瞬間、鳥肌が立つ。

あれだけ音について激論を交わした家福と高槻だが、まさに灯台下暗しと言っていいだろう、車自体が音なのだから。

 

一方、みさきにとっては、サーブは何を意味したのだろう?

 

これも、家福と高槻と同じように、みさきにとって大切な人を象徴している。

それは、亡くした母親だ。

 

総じて今作の赤いサーブは、音やみさきの母など、この世を去った人々の入れ物となっている。

 

つまりサーブは、霊柩車としての役割も果たしている。

 

今作のラストでは、赤いサーブに乗ってみさきの母が亡くなった場所(北海道)へと向かう。

これを霊柩車と呼ばずしてなんと言うだろう? 姿かたちは霊柩車とは似ても似つかぬ車だが、あの車に込められた想いは確かだ。

 

また、北海道に向かう途中、家福とみさきが吸っているタバコを、空に向かって上げるシーンは、線香をあげるメタファーだろう。

家福とみさき、2人とも大切な人を失った存在。二人を弔うために、タバコを使って線香をあげたのだ。霊柩車としてだけでなく、仏壇としての役割も担わせている。

おそらくカンヌ審査員も、ここまでは見抜けなかっただろう。

 

余談だが、「湯を沸かすほどの熱い愛」でも、銭湯を使った素晴らしい弔い方を行っている。 

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タイトルの意味とは?

 

ドライブ・マイ・カーは、直訳すれば車を動かすという意味だ。

 

しかし、ここまで読み進めた方なら分かるだろう。

 

赤いサーブは亡き者を象徴するもの。家福と高槻は音、みさきは母。

つまり、それぞれが失った女性と向き合い、弔うために車に乗る。

Carは、Herでもあるのだ。

 

失った者と直接再会はできなくとも、車を通して時間を共にしている。

 

家福がドライブを欠かさなかったのも、音のカセットテープを絶えず聴いていたのも、サーブに音を重ねていたからなのだ。

 

 

タイトルの意味はつまり、この世を去った人たちと共にドライブ=旅路を歩むことだろう。

 

 

 

 

登場人物とワーニャ叔父さんと「ヤマガ」との関係

 
今作で非常に印象的に用いられるチェーホフの「ワーニャ叔父さん」と、冒頭に音から告げられる「ヤマガ」が主人公の物語。
 
1つの作品に複数の劇が含まれること自体珍しいのだが、今作では登場人物に各劇の各役を投影している。
 
 
整理するために、以下の表を作成した。
あくまで私の個人的見解なので、もし自分と異なる場合は、どうか優しい語り口でコメントして欲しい。
 

 登場人物 

 「ワーニャ叔父さん」の役  役の特徴   「ヤマガ」の物語 
家福悠介 None→ワーニャ叔父さん

(as ワーニャ)

人生に悲観的

エレーナが好き

空き巣 
高槻

アーストロフ→ワーニャ叔父さん

→None(逮捕のため)

(as アーストロフ)

仕事を怠ける

エレーナが好き

女子高生
家福音

エレーナ(実際の役ではないが、

実生活で近いイメージ)

どちらの求愛も断り、

二人のもとを去る

ヤマガ 
 
 

登場人物と「ワーニャ叔父さん」との関係

 
家福は当初、演出家としての役に徹しようとするが、後半に高槻が逮捕されたこともあって、ワーニャ叔父さんを演じる。
 
一方の高槻は、アーストロフを希望するも、家福の考えでワーニャ叔父さんとして演技練習を行う。
 
ワーニャ叔父さんとアーストロフは、ともにエレーナを愛している。
そう、間違いなくエレーナは音に投影されている。どちらの求婚も断り、二人のもとを去っていくことも、実際の音の結末とリンクする。
 
家福が高槻をワーニャ叔父さんに指名するのも、自分がやるである役を高槻に乗っ取らせる→妻を寝取られる、ことのメタファーになっているだろう。
また、実際の「ワーニャ叔父さん」の物語では、
 
 ワーニャはエレーナに、魔女になって男の誰かに惚れ込むことを勧めます。
 
と、他の男と恋に落ちることを勧める。(エレーナとの恋が上手くいかないため、ヤケクソになった上での発言か?)
言うまでもなく、高槻が音に恋をすることを肯定するような発言だ。
 
これを高槻自身に言わせようとしているのだから、演技を通して不倫の告白をさせているようにしか思えない。どれだけ回りくどい方法で痛めつけてるんだ、家福。。
ちなみに、原作では家福は高槻に対して、スキャンダルを握って社会的地位を陥れたい旨の発言をしている。
 

 

 

登場人物と「ヤマガ」の物語の関係

 

冒頭のシーンで、音は「ヤマガ」なる人物を主人公にした物語を語りだす。

ヤマガの家に、突然入って性行為をする女子高生。

それを目撃した空き巣。

 

分かりやすいところから特定すると、空き巣は家福だと思われる。空港から家に帰ってきた家福は、音と高槻の性行為を目撃する。何もせずにただ家を出る様子は、空き巣の行動と類似している。

 

家に入る、入られる関係を考えれば、自ずとヤマガは音、女子高生は高槻となる。

これは半ばオヤジギャグ的な感覚で聴いてもらえると助かるのだが、女子「高」生と「高」槻は、一語だが漢字が共通している。

 

このヤマガの物語は、ワーニャ叔父さんにはなく、村上春樹の短編にもない独自の展開を生むために必要なものとなっている。

 

サーブに乗っている時、岡田将生がヤマガの物語に「続き」を付け加えるシーンがあるが、あのシーンを作りたいから物語を創作したのではないだろうか?

 

高槻は「私が殺した」と加えるが、あれは家福の自身に対するただならぬ感情を表したものではないだろうか? アーストロフからワーニャ叔父さんに転向させられた時から、何か勘づいていたのかもしれない。

 

 

 

原作との違い:村上春樹はブレーキを、濱口竜介はアクセルを踏んだ

 

今作をさらに理解するため、原作を読んだ。

「ドライブマイカー」は、この本のまえがきの直後に収録されている。

 

 

そもそも物語のボリュームが違うため仕方ないのだが、 原作との違いを挙げればキリがない。

 

原作との共通点は、主に

・登場人物(人名)

・音が亡くなったこと

・ドライブする設定

・チェーホフの戯曲

なのだが(これでもごく一部)、明らかに原作とは読後感が違う。

原作のある作品なのに、「脚本賞」が獲れるのも納得だ。

 

逆に、異なる点は、

・「ヤマガ」の物語が一切登場しない

・そもそも原作では、音と家福・高槻が会話するシーンは一切ない

・みさきの地元まで車で向かわない

・チェーホフの戯曲を作る過程が描かれない

・広島に向かわない

など、数え上げたらキリがない。

 

 そして、一番大きな違いは、村上春樹と濱口竜介の女性に対するアプローチだろう。

 

村上春樹は、ドライブマイカーに限らず、女性を理解不能な存在として扱うことが多いように感じる。厳密には、「女はこういう傾向にある」とか、「女の運転は苦手」とか、女の性格や特徴を男だけで決めつける。

 

原作では、もちろんみさきと家福が車内で交流する場面も描かれているのだが、今作のように最後はハグをする展開にはならない。

みさきを理解しようとするシーンはあったとしても、互いが打ち解け合う直接的なシーンはない。

女に近づくことがっても、一定の距離を保つために踏みとどまるのだ。

 

一方の今作では、家福とみさきの関係が大きく変化している。みさきの亡くした母の話を親身に聴いたり、みさきの運転を褒めたり、ラストではみさきの実家に行ったり。

とにかく、原作ではありえないような距離の詰め方を行う。

そして何より、ラストのハグだ。これで二人の距離はゼロメートル。

 

つまり、原作との違いは主人公と女との関係に着目すると分かりやすい。

 

村上春樹はブレーキを踏み、濱口竜介はアクセルを踏んだ

 

家福とみさきとの距離感において、原作ではブレーキいっぱいに踏みとどまっていたが、今作では一転してアクセルを踏み、みさきに近づいていく。

 

女性との距離感が徹底的に違うのだ。

 

 

 

まとめ

脚本賞も納得の素晴らしい作品。

 

原作とはあまりに違う女性の扱い方、ヤマガのオリジナルストーリーなど、衝撃的な展開に驚いた。

 

一体、こんな結末を、誰が決めただろうか?

 

西島秀俊と岡田将生は間違いなく、日本アカデミー賞を総なめするだろう。

日本映画史を変える一作になったのは、間違いない。

 

96点 / 100点 

 

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 以上です! ご覧いただきありがとうございました!
 
 
 
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