- まえがき
- あらすじ
- 「花束みたいな恋をした」のネタバレありの感想と解説(短評)
- (本筋前の大前提として) 単なる恋愛映画に非ず
- (花束みたいな恋を理解するために) LとRに込めた、シェアを否定する恋愛観
- 花束みたいな恋とは何だったのか
- 私も花束みたいな恋の経験者です
- LとRを認め合えるのが、本当の良い恋愛
- まとめ
まえがき
今回批評する映画はこちら
「花束みたいな恋をした」
最初に言わせてください。
ブログ書くつもりなんて無かったんだよ。見るつもりすらなかったんだよ。
見たのも公開から一週間以上たってからだし、もう数々のブログやYouTube、それにテレビ番組でも特集が組まれるほどの社会現象を起こしている映画で、一体俺が何を語っていいんだと思っておりました。
もちろん素晴らしい映画でしたが、自分の中にだけ感想をとどめておけば良いと思っていたほどです。だってこの映画を語るということは、必然的に自分の恋愛体験も語らないといけない訳で。
そんな恥ずかしい話をインターネットという公衆の面前に晒すなんて、絶対にやりたくなかったわけで。
でも、映画を見た当日は花束のことしか考えられなくて、気づけば花束に関して気づいたことをメモ帳に書き連ねる日々を送っていて。
シンプルな感想や文学的・映画的な解説は 多くの方がやられているので、今回の私のブログは個人の実体験を基に(マジで恥ずかしいが)、
・そもそも「花束みたいな恋」とは何だったのか
・花束みたいな恋を絶対におススメしない理由
を書き連ねていきたいと思います。
はい、つまるところ後半は恋愛指南ですw
俺の口から恋愛指南だなんて、、はい、自分で言っといてアレですが吐きそうです。
何人いるか分かりませんが、私のブログ史上の中でもかなりの恋愛要素を含んだ記事になっております。
あくまで個人的な感想ですので、是非ともご注意を!!
花束みたいな恋をしたい人はすればいいさ!!そして爆発すれば良いさ!!!
それでは「花束みたいな恋をした」ネタバレあり感想解説と評価、始めます。
あらすじ
・「東京ラブストーリー」「最高の離婚」「カルテット」など数々のヒットドラマを手がけてきた坂元裕二のオリジナル脚本を菅田将暉と有村架純の主演で映画化。坂元脚本のドラマ「カルテット」の演出も手がけた、「罪の声」「映画 ビリギャル」の土井裕泰監督のメガホンにより、偶然な出会いからはじまった恋の5年間の行方が描かれる。東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った大学生の山音麦と八谷絹。好きな音楽や映画がほとんど同じだったことから、恋に落ちた麦と絹は、大学卒業後フリーターをしながら同棲をスタートさせる。日常でどんなことが起こっても、日々の現状維持を目標に2人は就職活動を続けるが……。
「花束みたいな恋をした」のネタバレありの感想と解説(短評)
「#花束みたいな恋をした」鑑賞
— Blog_Machinaka🐻@映画ブロガー、ライター (@Blog_Machinaka) 2021年2月6日
うわぁぉぁぁぁぁ!!俺だ!あの頃の俺がいる!この映画、生々し過ぎる!
花束と呼ぶにはあまりに素朴で、雑草と呼ぶにはあまりに豪華なキャストによる、とあるカップルの日常を切り取った恋愛映画、というより生活映画。
あぁいう終わり方、俺も迎えてみたいもんだわ。 pic.twitter.com/SvdY3dToQA
菊池成孔の粋な夜電波、当時TBSラジオで大変だった。映画・音楽・文学などサブカルを愛する人にとっては絶品のラジオだったのだろう。
— Blog_Machinaka🐻@映画ブロガー、ライター (@Blog_Machinaka) 2021年2月6日
2人のナレーションが説明過多にならず妙に心地よいのは、菊池さんの語り口が影響したのかな?
個人的お気に入り回は母の死。#花束みたいな恋をした #TBSラジオ pic.twitter.com/8PPy4fiya2
つまるところ、麦と絹が菊池成孔のラジオ聞いてて、TBSラジオリスナーであることに、俺は大きな共感を抱いたのかもしれない。そして、口には出してなかったがタマフルも聞いていたに違いない。#utamaru#花束みたいな恋をした
— Blog_Machinaka🐻@映画ブロガー、ライター (@Blog_Machinaka) 2021年2月6日
麦と絹が毎日歩いてた多摩川の半分は、ファミリーで出来ている。
— Blog_Machinaka🐻@映画ブロガー、ライター (@Blog_Machinaka) 2021年2月6日
河川敷で野球をする子供、土手から見守る父親。そんな光景を何度も見ていた麦が結婚を物語るのは、自然なこと。絹がその提案を断るのは、イヤホンのLとRのように、同じ場所でも景色が違って見えたのだろう。#花束みたいな恋をした pic.twitter.com/tk5sNEDje4
(本筋前の大前提として) 単なる恋愛映画に非ず
本筋に入る前に、認識合わせをさせてください。
今作は、有村架純さん演じる絹と菅田将暉くん演じる麦の、花束みたいな華やかな恋。。とは裏腹に、恋愛の酸いも甘いも全部入りの、むしろ酸っぱい部分が全開になった(ある意味)トラウマ映画だと思うのです。
あ、ついでにネタバレいいですか? 壮絶な失恋映画です!
はい、これで驚いた人は映画見てから出直してこいッ!! 予告だけを見て思い描いていた
似ている映画と言えば、サブカル的要素や分かれた状態から逆行して物語が進んでいくという意味で、「500日のサマー」が思い当たります。
また、昔2人が夢見た理想郷を思い返すという意味で、「ラ・ラ・ランド」も近い。
www.machinaka-movie-review.com
ただ、私の解釈としては今作は恋愛映画ではなく、恋愛を通じて二人が成長していく物語であると感じます。
恋愛を通して人生の教訓を与えてくれたような、そんな気さえします。
絹と麦の恋が切ないとか、カップルが見たら気まずいとか、そんな言葉で片づけられないのが今作なんですよ!! 皆さん!!
(花束みたいな恋を理解するために) LとRに込めた、シェアを否定する恋愛観
冒頭、イヤホンのLとRをカップルが分け合うシーンで絹と麦が口を出すシーンが映ります。
作品を見た方ならご存知でしょうが、イヤホンのLとRでは違う音が流れる→だからLとRを分け合うなんて言語道断という論理で、絹と麦のサブカルに対する情熱とパーソナリティを映し出すシーンとなります。
さらに、LとRは同じ音に見えて実は違う音→カップルがLとRを分けることは互いのズレを表す、というメタファーになってます。
今作は、このイヤホンのLとRの関係性を非常に大切にします。もっと言えば、絹と麦の直接的なやり取りを見なくても、イヤホンだけを見ていれば自ずと二人の関係が分かる映画にもなっているのです。タイトルの花束は、ただの飾りでしたね笑
最初はLとRを分け合うことに反対していた絹と麦でしたが、自然とLとRをファミレスで分けあってしまう。そしてとうとう、分け合う事すらなくなってしまった。
最後に、二人が偶然出会ったカフェから別れる場面では、絹と麦がLとRのように左右の分かれ道を歩いていく、そして後ろ姿で手を振り合う。
この位置関係こそがイヤホンのLとRを象徴していて、それぞれ違う音→違う人生を歩んでいくという結びになっておりましたね。
つまり、図解にするとこんな感じです。終電を逃した【出会い】から始まり、付き合って【円満】な関係を気付いていく♥。そして学生から社会人になり、お互いがお互いの人生を歩んでいく中で、次第に二人がズレ始め【停滞】期に入る。最後には【別れ】が訪れ、完全ぬ交わらなくなってしまう。
絹と麦をイヤホンのLとRに見立てるなら、そもそも別れてしまうのは運命的だったのかもしれません。。
このLとRが意味する恋愛観を、是非ともご理解ください!
それでは本題に入りましょう!!
花束みたいな恋とは何だったのか
絹と麦がした、花束みたいな恋。その実態とは何だったんでしょう。
この映画と同じく偏屈な私はこう思ってしまいました。
花束みたいな恋とは、一種の人類補完計画である!と。
※人類補完計画とは、新世紀エヴァンゲリオンに出てくるとあるプロジェクトで、人類の肉体と魂をそれぞれ一つにする計画のことを指します。
突拍子もないこと言ってすみません。
ただ、サブカル好きが今作を見ていると聞いたので、通じるネタだと思ったのです。
恋人といえば、何をするにもシェアが基本。
デートでは左手と右手をシェアして手をつなぎながら歩く。
日替わりランチがAとBの二種類あったら、カップルで二つ頼んで両方のメインディッシュをシェアしあう、それがカップルだと思うのです。
ただ今作の場合、シェアというよりは「同化」という表現がぴったりくると思います。
好きな本も同じ、同じラジオを聴いている、履いてる靴も同じ。「まるで私たち、アダムとイブね」と言わんばかりの共通点で繋がった二人が、同じサブカルで同じ時間を過ごそうとする。それはそれで、大切で愛おしい時間です。
ただ、本当に共通点しかない麦と絹は、本当に一人の人に見えて仕方なかったんです。そう考えると、この映画がとても恐ろしく感じてしまうのです。
全く他人であった二人が同じ時間と同じ場所、そして同じものを共有しあって、あたかも同一人物のような行為を繰り返しているように、僕は思えました。本当はイヤホンのLとRのように、同じようで違うものなのに。
二人で一つ、ヒトツノココロト、ヒトツノカラダ。。
ほら、人類補完計画でしょうが!!!!(無理やりですいません)
全くの他人であった二人が、あたかも同じ人間であるかのように同じ振る舞いをする、まるで同じ人間のように同化していく過程こそ「花束みたいな恋」の本質であり、やはり人類補完計画だと思うのです。
よくよく考えてください。「花束」という言葉は聞こえは良いですよ、美しいですよ。
しかし、花束を作るためには、本来別々であるはずの花を縛り付け、身動きが取れない状態にする行為なのですよ。言い過ぎかもしれませんが、花束というのは人間のエゴが起こした人工的な造花でしかないんです。
そして花束の花は大地から切り離され、限られた養分の中で生きるしかない。
花束は花ではない。いずれは枯れゆく運命にあるのです。
花束みたいな恋、というのは実は恐ろしい行為なのです!!!
何だか陰謀論者みたいになってきましたが、私にとっては絹と麦が花束のように身動きが取れず、常に距離感の近すぎる関係のように見えて仕方なかったのです。
私も花束みたいな恋の経験者です
これだけ花束みたいな恋を忌み嫌うのは、理由があります。
それは、私自身も花束みたいな恋の経験者だからです。
これまで言いませんでしたが、麦の一挙手一投足、私の過去の行いと重なります。
つまり、私イコール菅田将暉です。菅田将暉ファンの方、怒ってGoogleに通報しないでくださいね。
そんな経験者の私は、麦を見て身体が引き裂かれるような思いでした。あぁ、お前もか。お前も同じ失敗をしてしまうのか、と。
これまで何人かとお付き合いをさせて頂きましたが、花束みたいな恋を経験したのは小6の終わりから中1にかけての頃です。付き合った女の子は仮にMちゃんとしておきます。
お笑い番組と少年ジャンプをこよなく愛したMちゃん。もちろん私の趣味も一緒。
Mちゃんのお母さんの帰りが遅いことを知っていた私たちは、いつもMちゃんの家で話し込んでました。
ワンピースのサンジの回が泣けただとか、「いつ見ても波瀾万丈」に志村けんが出て面白かったとか、世の中は野猿をもっと評価すべきだとか、ガキなりのサブカルトークを繰り広げておりましたw。
最初は同じ趣味を話せる友達だと思っていたのですが、お互いの趣味が重なり合うことで、まるで運命の人のような錯覚に陥ったような感じを覚えています。
分かりやすく言えば、心がドキドキするようになっていました。
そして、ごくごく自然な形で付き合うことになり、それが初恋だったように思います。
強いて言えば、当時はやっていたモー娘。の「ハッピーサマーウェディング」の曲を聞きすぎて、頭がおかしくなったのかもしれません。
いざ書いてみればサブカルとは言い難いかもしれませんが、お互いのパーソナルな話よりも趣味の話ばかりしていた点で、絹と麦をMちゃんと自分に重ねてしまったのです。
今でも忘れませんが、中学生直前の春休みはずーーーとMちゃんの家で一緒にジャンプを読んだりテレビを見たり、とにかく同じものをMちゃんと共有していました。
(あ、そういやこれ思い出すのは20年振りですが、二人でなぜかPS版「ときめきメモリアル」をして、二人で協力して意中の女性を落とすために頑張っていました。なんだったんだろう、あの時間はw)
とにかく、あの頃は春休みという大きな時間ボーナスがあったにせよ、毎日Mちゃんと一緒にいるのがとにかく幸せで、同じ趣味を同じ場所・同じ時間で共有するのが本当に楽しかったのです。
そんな春休みが明けて、中学に入ってからも片道20分くらい掛かる道のりを一緒に登校したり、校内でも時間があれば話しこんだり、仲良くしてました。
が、時間と環境の変化というのは恐ろしいもので。私はバスケ部、Mちゃんは美術部に入り、帰る時間も過ごし方も全く変わってしまって。バスケ部のメンバーと仲良くなるために、彼女よりもバスケ部の方を大事にしちゃって。
そして私の趣味はお笑いや漫画やゲームではなく、音楽やパソコンなどの方向に進みました。一方の彼女は絹のように、昔から愛していた趣味を貫き、好きな漫画のキャラクターのイラストを書いてました。
気付けば二人で合う時間もほとんどなくなりました。そもそも、話題がなくなってしまったのです。LとRのくだりを無理やり使うならば、同じTSUTAYAに行っても私はCDのコーナーに、Mちゃんは本のコーナーに行くようなタイプに変わってしまったのです。
もう、歩む方向自体が違ってしまったのです。だからどれだけ時間が経っても、決して再開することはありえない。
恐ろしいのは、私は麦と同じように、二人の話題の接点がなくなり距離が離れていくことに、何も感じていなかったのです。彼女のことを考えている時間と余裕がなかったというか、当時は部活に勉強に新しく始めた趣味に夢中で、Mちゃんのことを振り向くことすらしなかったのです。
そんな関係が続いて3か月。別れは突然やってきました。
誰もいなくなった放課後の教室。Mちゃん本人ではなく、Mちゃんの同じ美術部のTさんに呼び出され、一つの手紙を渡されました。
それはMちゃんからの別れの手紙でした。
内容は、もうすぐ転校して会えないから別れましょうという旨の文章でした。
しかし、転校という二文字の理由とは全く脈絡のない、これまでの思い出を書き綴った長文を見た時、涙を流していました。
なぜ俺は今まで気づかなかったんだ。。
別れる本当の理由は転校じゃないよね。。
そして、直接会いに来ないのが、別れる一番の理由だよねって。。
転校するから自然消滅だよね、だなんて到底思えない気持ちが、その手紙に込められていました。
麦と同じく、気づいたころにはもう遅いんです。取り返せないんです。
どれだけ泣いたって取り戻せない。
決して好きなカルチャーが違ったから別れた訳ではないと思います。ただ、あの頃は本当に話題がなくて。
体育会と文科系の部活では、同じ学校でもいる場所が違ってて。まるでお互いが異世界にいるような感覚さえして。
麦と絹と同じく、時間の変化と環境の変化に、耐えられなかったんです。
今考えると、何事も言い訳に聞こえてしまいますね。
中学に入るまではあんなにも好きだったMちゃんのことが、中学に入ってからここまで気持ちが変わってしまうとは。
そして何より、フラれるまで気持ちの変化に何も気づかなかったとは、、あの時の自分は、いったい何を考えていたんでしょうか。悔しいですね、何も記憶にありません。ただただ翌日の部活と勉強、そして趣味のことで頭がいっぱいでした。
LとRを認め合えるのが、本当の良い恋愛
自分との共通点の多さにときめき、運命の人だと妄信。
そのまま突き進みあらぬ方向に行ってしまうのは、私だけではないはずです。
花束みたいな恋はやはり、熱しやすく冷めやすい。前述しましたが、花束には必ず寿命が来るのです。
そんな恋も一つの立派な形ですが、どうせ恋するなら長続きしたいと誰もが思うはず。
私が思うに、イヤホンのLとRのように、お互いの違いを認め合えるのが本当の良い恋愛だと思うのです。(あぁ、何太字にしてるんだ俺。。すいません。)
何もかも共通点ばかりで運命の人だ!と思って付き合い、やっぱり私の思った人じゃなかった!とすぐに別れるのは、所詮花束みたいな恋に過ぎません。
そもそも他人は他人。もともと彼女は、別の場所に咲いている花。無理に花束にする必要なんてないんです。
自分と全く同じ思考の人なんていないんです。どんなに共通点があっても、必ずどこかで違いが出る。ズレが出る。
でも、そんなのは人間として当たり前なんです。違いが出るということは、その人の個性が出ているということ。
いくら自分と合わなくても、その人の個性まで否定してはいけない。
相手にどうしても許せないポイントがあったら、我慢せずに指摘する。
私はLだ、あなたはRだと、あえて違いをはっきりさせておく。
自分との違いを認めて、その違いをむしろ尊重することが、良い恋愛だと思うのです。それが最終的には、個性の尊重になるのだから。
昔、「世界に一つだけの花」という歌がヒットしましたが、人は一人一人別の顔を持ってるんです。それぞれ一輪の花のように、別々の場所で咲いているんです。
そんな花を無理やり花束にして、距離感を近くする必要はないんです。離れていたって、花は美しいのです。
花束よりも、世界に一つだけの花に恋をしよう。
まとめ
はい、最後に私なりの理想の恋愛を述べてしまったわけですが、何も適当に言っている訳ではありません。
自分と同じ人間なんているはずがないんですよ。運命の人とは別に、運命的に違う人だっている。
LとRのように正反対なタイプでもその違いをハッキリさせておくことで、隠し事がなくなるというか、視界がクリアになるというか。
恋愛で大事なのは、どれだけ相手に近づくかではなく、どれだけ相手のことが見えているかに尽きると思うのです。
相手が見えていないと近づこうにも近づけないし、近づいたと思っても変な方向に進み落とし穴に入ってしまうことだってあるんです。
はぁ、もう一生分の恋愛トークをしてしまいました。
こんなこと言うの申し訳ないんですが、常連読者の方やTwitterのフォロワーさんはこの記事を読まないでくださいww なんか今、すっごく恥ずかしくなってきた。
どうせ今更書いても検索順位大したことないと思って書きなぐってしまったけど、、、どーしよ、消しちゃおうかな笑
ということで、我慢できなったら消すので見るならお早めに!!!!
98点 / 100点