Machinakaの日記

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映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」ネタバレあり感想解説と評価 庵野が本作で達成した、隠れた補完計画とは?

 
こんにちは! 
 
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この記事では、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のネタバレありの感想・解説・考察記事を書いています。
 
 目次

 

 

まえがき

 

 

今回批評する映画はこちら

 

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

 
 
 

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(C)カラー

 あれからどの位の月日が経っただろうか。
 
昔過ぎて、もはや覚えていない。
 
そもそも、前作の「エヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の公開は2012年、和暦に変えれば平成24年。
 
図らずして、元号をまたいで新作が公開されることになるとは、誰も想像しえなかったのではないか。
 
社会的な事情もあり、かれこれ約9年の歳月をかけての劇場公開。
 
楽しみで楽しみで楽しみで、普段の調子ではブログが書けなくなっている。

 

待ちに待った最新作かつ最終作だが、正直エヴァの物語が終わってしまうのは悲しい。と同時に、ようやくエヴァから解放されるのか。

 

庵野総監督の身を案じれば、喜ぶべきなのか。

 

当時多くの子供たち=チルドレンに影響を与え、大人になった今でもエヴァに思いを募り続けている。私のみならず、多くの方々がそのような想いを持っているはず。

 

アニメのみならず映像作品全般の中でも、私に多大な影響を与えたエヴァンゲリオンの新作を、公開初日に鑑賞して参りました。 

 

それでは「シン・エヴァンゲリオン劇場版」ネタバレあり感想解説と評価、始めます。

 

 

 

 
 

あらすじ

  
庵野秀明監督による大ヒットアニメ「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの完結編。1995~96年に放送されて社会現象を巻き起こしたテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」を再構築し、4部作で新たな物語を描く「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズ。2007年に公開された第1作「エヴァンゲリオン新劇場版:序」、09年の第2作「エヴァンゲリオン新劇場版:破」、12年の第3作「エヴァンゲリオン新劇場版:Q」に続く今作は、庵野総監督の下、テレビシリーズから新劇場版までシリーズに深く携わってきた鶴巻和哉と、新劇場版シリーズで副監督など務めてきた中山勝一が監督を担当し、新たな結末が描かれる。テーマソングは、これまでの新劇場版シリーズも担当した宇多田ヒカルが引き続き手がけた。タイトルロゴには「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の最後に、楽譜で同じところを繰り返す際に使用される反復(リピート)記号が付く。

 eiga.com

 

 

 
 
 
 
 

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のネタバレありの感想と解説(全体)

 

 
 
 
 
 

 

庵野自らによるエヴァンゲリオン解体新書

 

たった今、鑑賞を終えた。そして、机に向かってこの記事を書いている。

 

書いている指が、少し震える。

 

何故なら、鑑賞前に書いた↓の記事が本作のネタバレを偶然にも含んでしまったからだ。Twitterでも書いたが、是非とも鑑賞前に記事をご覧いただきたい。

庵野と俺のシンクロ率は、∞だったのかもしれない。

 

しかし、冷静に考えてみたら、実は的外れな記事なのかもしれない。今はただ、自分の望むエヴァに仕立て上げたいだけなのかもしれない。

 

www.machinaka-movie-review.com

 

2021年3月8日、11時過ぎ。初回鑑賞を終えた時刻だから、もうネタバレしても良いだろう。ということで、本作の鑑賞後の感想を書いていく。

  

本作はエヴァンゲリオンの全てを終わらせるために、庵野自らがエヴァンゲリオンの究極攻略完全ガイドを作ったと言ってもいい。

 

そのため、誰がどう見ても理解できる、エヴァンゲリオン史上、最も分かりやすいエヴァンゲリオンだったのは明らかだ。

 

これまで謎に包まれてきたゲンドウ、そして渚カヲルのモノローグを行うことにより、テレビアニメ、漫画、旧劇場版、そして新劇場版で行った全てのエヴァンゲリオンを解体し、丁寧に説明して見せた。

 

ここまで庵野が説明的になったのは、実は初めてではない。「式日」でもモノローグされているように、庵野は映像でしか我々とコミュニケーションが取れない。

実写映画では自身の心境を明確に語っている。

 

それが今になって、実車ではないエヴァンゲリオンにも庵野の実写映画の特徴が露出したのだろう。

 

これは庵野の作家性であるし、我々がどうこう出来るものではない。

 

ただ、言わせてほしい。

こうして映像作品の解説や考察をしている身としては、もっと観客を信じてほしかった。なぜあんなに分かりやすく、丁寧に説明したのであろうか。

 

かつて非常に抽象的に描かれ皆が夢中になって考察できたエヴァは、本作には存在しない。

 

それは、なぜか。なぜあのようなラストを用意したのか。

 

以降の文章で説明していく。

 

 

 

 

 

 

  

WARNING!WARNING!

※以降、作品に関する重大なネタバレがあります。鑑賞前の方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 

解説・考察のための、本作の大まかなあらすじ

まず、スクリーンの枠の中で起きたことを説明したい。

また、初回鑑賞時の情報ということもあり間違いがあるかもしれないが、ご容赦願いたい。優しい方は、是非とも優しい言い方で指摘コメントを下されば直します。

 

Qのラスト直後からのスタート

 

Qのラストから本作は始まる。シンジはトウジの家に預けられ、その後ケンスケの家にアスカと共に居候する。

 

そこで次第に心を開くシンジ。Qでは悲劇としか捉えなかったニアサードインパクトの解釈を改める。牧歌的な風景とカントリーミュージックのような洋楽、そして緑一色というエヴァでは非常に珍しい色彩が、シンジと観客を癒していく。

 

そして、ヴィレに戻ったシンジはQと同様に軟禁されるも、ミサトの真意を知り心を許す。

 

エヴァQで起きた全てを肯定し、シンジ自身が内省するシーンもなく、状況は絶望的ながらも物語的には希望に満ちたテイストに仕上がっている。

 

ネルフ本部へ、いざ行かん!

 

そして、ネルフ本部に進入したヴィレ御一行は、ゲンドウ及び冬月のネルフが企てるフォースインパクトを阻止するために、ヤマト作戦を実行。

 

しかし、ネブカドネザルの鍵により、ゲンドウ自身が神となり使徒となり、ヴィレにかくまわれたエヴァンゲリオン初号機を回収しに現れる。

 

ゲンドウの行動は、①種の保存というノアの箱舟と化したヴィレから初号機という原動力を奪うこと、②初号機に残るユイの魂を持ち帰るために、初号機を回収したと思われる。

 

旧劇場版の「Air/まごころを君に」でも描かれた通り、ゲンドウは(疑似)リリスとアダム、そして二本のロンギヌスの槍による人類補完計画を行う。

 

6枚の翼が映る画は、旧約聖書で神と対立したルシファーのメタファーとなる。つまり、ゲンドウはルシファーとなり神と対抗し、神を超えるという構図を示した。

 

裏宇宙の世界に入る

 

しかし、旧劇とは異なり、ガフの部屋よりもさらに原初的な「裏宇宙」という世界に入っていくゲンドウ。

そこでは我々人間はもちろんのこと、何人たりとも認知できない世界になっていた。

 

これまでガフの部屋など人間が生まれる前の世界を描いてきたエヴァだが、宇宙という人類が生まれるよりも前の世界を描いた点で興味深い。

つまり、神が宇宙を創る時代にまで、この世界を戻そうとしたのではないか。

 

ゲンドウの目的は、端的に言えば「時間の初期化」なのかもしれない。

シト新生の意目地ソングで「心よ原始に戻れ」という歌があったが、神がこの世界を作った原始の時代にまで戻そうとするのがゲンドウの一貫した考えだろう。

 

 

そんな裏宇宙に入ったゲンドウに随行するシンジ。

 

ここから、「スターウォーズ」のごとく全宇宙をかけた壮大な親子喧嘩が始まっていく。

自身の作品を何度も作り直し、新たな作品に仕立てる。そして、銀河をかけた親子喧嘩。庵野は本当にジョージ・ルーカスと似ている。

 

スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還(字幕版)
 

 

裏宇宙の世界では、テレビアニメ、旧劇、そして新劇の世界が入り混じる、シンジの記憶の世界に入っていく。

 

裏宇宙→記憶の世界を描いた理由

 

テレビアニメで描かれた初号機とシンジが対峙するシーン(逃げちゃダメだ、、の場面)から始まり、ミサトの自宅やレイの自宅など、過去作で描いた世界で戦うゲンドウとシンジ。

 

このシーンは、「シン・エヴァンゲリオン」というタイトルが表しているように、エヴァンゲリオン自体を素材としてサンプリングしながら、新たなエヴァンゲリオンを構築している。

 

つまり、過去のゴジラにオマージュを捧げ新たなゴジラを作った「シン・ゴジラ」がそうだったように、庵野の作家性である「過去の作品を使いながら一本の作品として仕上げる」ことを、自身の作品であるエヴァンゲリオンを対象として行っているのだ。

 

言い方を変えれば、エヴァを自らの手で生まれ変わらせた。「新生」させたのだ。

 

ウルトラマンや宇宙戦艦ヤマトなど、数多くのオマージュを捧げた庵野が、自身の作品をセルフオマージュした、という解釈である。

 

そして、この行為こそがエヴァンゲリオンを終わらせるための唯一の処方箋だったのだろう。

 

裏宇宙に入ったゲンドウは、自身がこれまで行ってきたインパクトについて説明を始める。

 

・セカンドインパクトは海の浄化

・サードインパクトは陸の浄化

・アディショナルインパクトは魂の浄化

 

これで人類の全てが浄化され、肉体も魂も一つになり、もう誰も苦しむことがなくなる世界に俺はしたい、と主張する。

 

が、ミサトが犠牲となりガイウスの槍という新たな槍が、裏宇宙にいるシンジに届けられる。

 

そこから、ゲンドウの内省がモノローグで描かれる。

 

ゲンドウの生い立ち、ユイとの出会い、そして別れ。これまで断片的かつ他人によって描かれたゲンドウの内面が、ゲンドウ自身によって描かれることになる。

 

それを知ったシンジは、ゲンドウが自分と近しい存在だと知る。そして、ゲンドウによる人類補完計画は、旧劇と同じく失敗する。

 

代わりに、ユイの補完計画が作動する。そして、舞台はエヴァンゲリオンという虚構から、宇部という現実の世界へと映る。

 

宇部の駅でホームに座るシンジとマリ。

電車から降りると言うことは、絶対に自分で結末を変える事のできない映画というレールから降り、現実に戻ることである。レールから離れれば、虚構は終わるのだ。

 

そして二人は階段を上り、駅から出る。宇部市の全景が映ったところで、映画は終わる。

 

 

 

 

ラストの解釈は?

ラストには、エヴァンゲリオンという枠を超えた結末が用意されていた。

 

これまでもエヴァはスクリーンの外側、実車の風景を写してきたが、今回はレベルが違った。

 

宇部市、そしてシンジとマリの関係について、語っていきたい。

 

宇部新川駅は何を示したのか?

 

最後に映ったのは宇部新川駅だと思われるが、あれは一体何を示していたのだろう。

 

山口県宇部市は、庵野秀明の生まれ育った土地である。

 

それをラストに移すということはつまり、エヴァンゲリオンという虚構が終着駅を迎え、庵野は現実に戻っていくという解釈が出来る。

 

 ちなみに、「式日」でも宇部市を舞台にしており、本作のラストと非常に密接した関係になっていると思う。

 

式日

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  • 発売日: 2020/07/14
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駅から離れる意味とは?

 

宇部の駅のホームに佇む、シンジとマリ。

少なくとも、電車には乗っていないことが分かる。つまり、レールから離れたことを意味する。

  

これまで庵野作品で何度も描かれたきた電車のレールは、他人が勝手に方向を変える事ができない映像作品という運命構造のメタファーだろう。

 

映像作品は、自分で結末を変える事が出来ない。他人が敷いたレールの上を、ただ進むことしか出来ないのだ。

 

つまり、レールから降りている状態というのは、エヴァンゲリオンという映像作品の終了を暗示している。宇部という実景が写っているのは、エヴァという虚構が終わった証拠でもあるだろう。

 

ちなみに、ホームに座っていたシンジとマリは、おそらく庵野と安野モヨコを示していたのだろう。マリとシンジがビジネスルックをしているのは、「働きマン」のメタファーだろうか。

 

働きマン(1) (モーニングコミックス)

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エヴァを作っていた時はゲンドウと同じく、独りぼっちだった。しかし、安野という最良の妻を持ち、Qで精神を病んだが、なんとか回復した。

 

エヴァという物語の終着駅は、自身の生まれ故郷である宇部だった。

 

先に述べた通り、「シン・エヴァンゲリオン」とは自身が手掛けたエヴァンゲリオンをサンプリングし再構築することにより、「死と新生」を行うものであった。

 

つまり、庵野がエヴァンゲリオンを作る東京都武蔵野市(ガイナックス)ではなく、生まれ故郷である宇部市という原始に戻ったのである。

 

そう、これで庵野の補完計画は達成されたのである。

 

これでもう、エヴァンゲリオンが出来る前の世界に戻り、庵野は平穏を取り戻す、という話になっているのかもしれない。

 

 

庵野+安野=アンノ

 

そして、本作の補完計画はゲンドウでなくユイの補完計画が叶ったものとなっている。これは、ゲンドウ≒庵野の妻である安野の願いが叶ったとも言えるのではないか。

 

つまり、本作は庵野と安野の補完計画、アンノ補完計画が達成されたとも言える。

 

もしかしたら、これからもエヴァンゲリオンは続いていくのかもしれない。少なくとも、パチンコやゲームではエヴァを見ない日はないだろう。

 

しかし、アンノの中ではエヴァは完全に原始に戻ったのである。

 

宇部には第3新東京市もセントラルドグマもない。あるのは、街と工場、そして海だけだ。

 

 

 

ラストの結末について再考察(3.9追記)

 

前述した、

 

エヴァンゲリオンが出来る前の世界に戻り、庵野は平穏を取り戻す

 

というラストの宇部市の解釈について、ファンの方から

 

・「エヴァが出来る前なんて寂しいことを言わないで」

・「実は時間が戻っているわけじゃなくて、インフィニティ化した世界が復興した世界なのではないか?」

 

など、実に有益なコメントを頂いた。

 

確かに、エヴァを完全になかったことにするなど観客にも庵野にも不可能なことだ。

公開から僅かばかり日が経ち、考える余裕もできた。

 

別の視点で、ラストについて再度考察していきたい。

 

ラストは虚構と現実が入り混じった状態

 

冷静に考えると、本作のラストは完全に虚構から脱した状態とは言い難い。

 

宇部の駅と街が上空から撮影したシーンでは、背景は実景であるがシンジやマリは二次元のママである。

 

つまり、ファンの方が指摘されたように、エヴァンゲリオン(のキャラ)という虚構と宇部市の現実が入り混じった状態になっているのは間違いない。

 

 

 

あの素晴らしい愛をもう一度

 

この状態がどんな意味を成すのか?

 

シンジによりインフィニティ化した世界は終わった。そして、新劇場版がこれまで描いてきた世界(線)は終わった。

 

本記事の定義では、補完計画は「時間の初期化」や、「原始に戻る」ことである。

 

この文脈で前述の考察では「エヴァが出来る前に戻った」と解釈したが、この解釈では今までの補完計画と矛盾する。

 

そもそも、ゲンドウはなぜ補完計画を実行したのか?

 

「愛している人(ユイ)に会うため」に補完計画を実行したのではないか?

 

安野総監督の実写映画「ラブ&ポップ」のラスト。

エンドロールでは「あの素晴らしい愛をもう一度」という曲が流れて終わる。

歌詞の通り、ゲンドウの補完計画を暗喩していると思われる。

  

つまり、宇部市に戻ってきたのは、「あの素晴らしい愛をもう一度」味わうために来たのではないかと思われる。

 

宇部市という生まれ故郷に戻り、妻(マリ)を連れて実家にいる家族に会いに行ったのではないか?

 

さらに、宇部興産を始めとした工場風景など、エヴァの世界を描くに至った原風景を見に行ったのではないか?

 

「あの素晴らしい愛をもう一度」というテーマであれば、シンジもゲンドウもユイも、誰もが納得できるはずだ。

 

ラストは、庵野が込めた全力の愛が溢れ出ていた。

 

 

最後に、「あの素晴らしい愛をもう一度」という言葉は、スクリーンの中のキャラクターだけに向けられたものではない。

 

スクリーンの外にいる我々観客は、「あの素晴らしいエヴァをもう一度」という気持ちで観に行ったのではないだろうか。

 

庵野は見事に素晴らしいエヴァを作って見せた。観客の期待に応えてみせた。

 

観客はエヴァンゲリオンの愛を再び味わえた。あの素晴らしいエヴァをもう一度、見ることができた。

 

そして、世界に愛が溢れた。

 

この映画は、見た人に愛を与える映画なのかもしれない。

 

 

ラストの結末について再々考察〜ネオンジェネシスとは?〜(3.12追記)

 

度々の考察で申し訳ない。エヴァと同じく、3回目の反復で、ラストの考察を行っていく。

 

シンジが綾波と語ったように、ラストの宇部市はネオンジェネシスが行われた結果である。

 

そして、ネオンジェネシスは補完計画ではない。

前述したように時間を戻す、原始に戻すという補完計画の性質と、ネオンジェネシスは全く異なるものである。

 

ネオンジェネシスとは、時間を戻す訳ではなく、「エヴァのいらない世界」にすることである。

 

また、保管計画とは逆で、ネオンジェネシスは時間を進めるものである。

 

ネオンジェネシス=新世紀であり、シンジが学生服からスーツを着ていることからも、明らかに時間が進んでいると思われる。

 

ラストの駅のホームでシンジの首にDSSチョーカーが残っている。

確かにエヴァの記憶は二人に刻まれているのだ。

 

しかし、DSSチョーカーは外れ、コメントにあるようにエヴァという足かせが外れた。

 

エヴァの必要のない世界で、宇部市=生まれ故郷から再出発するんだ、という庵野の意思表明のように思えた。

 

以上がラストの再々考察である。

 

これ以上は、もう書かないようにしよう。

 

 

庵野は大人の責任を果たした

庵野はエヴァを自身の手で原始に戻し、補完計画を達成した。

そしてシンジくんは、ネオンジェネシスによって新しい世紀へと進み、エヴァンゲリオンのいらない世界に進んだ。

 

これは単にエヴァンゲリオンを早く終わらせたい訳でもなく、投げやりになった訳でもない。

うつ病に掛かりながらも、自らの手でエヴァの「死と新生」を果たした。

 

これは庵野がエヴァに対して常々感じていた、「大人の責任」を果たしたともいえる。

 

庵野はテレビシリーズから、エヴァに熱狂したオタクたちに対して嫌悪感のようなものを持っていた。言い方を変えれば、信用をしていなかった。

 

自分の責任を超えた議論が日夜繰り返され、自分のメッセージが誤って伝わり、誰も理解されなかった。

 

「式日」でも語られていたように、映像でしかコミュニケーションが取れないという庵野にとっては、耐えがたい苦痛だったのだろう。我々は図らずして、庵野を傷つけていたのかもしれない。

 

エヴァを自らの手で再解釈・再構築し、物語を終わらせたのは、庵野が考えた責任の取り方だったのだろう。

 

過剰とも思えるゲンドウのモノローグによるエヴァ世界の説明は、これ以上ファンが悩まないように、そして庵野が確実にメッセージを伝えるために、行われたのではないかと思う。

 

テレビや旧劇ではコミュニケーションに失敗したかもしれないが、本作では確実にメッセージが伝わっただろう。

 

本作でエヴァの「終活」を終えた庵野。

観客に「エヴァはもう終わり!いいか、ちゃんと終わらせたからな!もうアレコレ言うなよ!」とファンに向けて徹底したようにも感じる。

 

それほど本作のエヴァは分かりやすく、一切の迷いがない。

 

これで庵野は、自身の責任として自身でエヴァを終わらせたのだ。これ以上、自分の範疇の外側でエヴァを考えてもらいたくない、自分の作品は自分の責任の範疇でやりたい。

 

庵野はアニメと同じく、自身の作品を完全にコントロールしたいのかもしれない。それは我々観客も同じく、庵野作品の一部なのかもしれない。

 

過剰な曲解ではなく、ちゃんとした解を本作で与えているのだから。

 

 

 

「シン」の本当の意味とは?

 

いろいろと書いてきたが、実は庵野の意図はタイトルがよく表している。

なんと、二文字で表せる。

 

タイトルの「シン」について、鑑賞前は「死と新生」の「新」という解釈をした私だったが、見た後は印象が異なった。

 

おそらく「シン」は「sin」と読むべきだろう。sinは英語で「罪・ばち当たり」という意味を持つ。つまり、「ばち当たりなエヴァンゲリオン」といった意味が込められているのではないか。

 

ejje.weblio.jp

 

 

本作にはたびたび、「罪」や「贖罪」といった話が描かれている。

 

これは、庵野がエヴァンゲリオンに抱いていた罪の意識ではないだろうか。

そして、本作は贖罪に当たるものではないだろうか。

 

庵野はエヴァンゲリオンを作り、オタクを大量に生産した。オタクはエヴァの世界に浸かり、独自の解釈を始めた。

 

それを庵野は嫌がり、そして申し訳なく感じた。

 

シン・エヴァンゲリオンとは、そんなオタク≒観客に対する贖罪でもあるように感じる。

 

もちろん、「シン」は「sin」の意味だけではない。

 

新しいものを作る「新」の意味や、シンジ=神事という「神」にまつわる意味合いもある。

 

色んな人が色んな「シン」の解釈をすれば良い。

これはあくまでも私なりの解釈と言うことで、ご容赦願いたい。

 

 

 

我々は今、何をすべきか

 

何度も掲載するが、本作の答えは同じく宇部市を舞台とした「式日」に描かれている。

 

 詳しくは、鑑賞前に書いたコチラの記事を参照されたい。

www.machinaka-movie-review.com

 

上の記事に書いている通り、庵野は現実を志向する人間である。

しかし、実際は現実から逃避し、虚構の世界に逃げ込むこともある人でもある。

 

その方法論が特撮やアニメ・実写作品であり、これらが庵野を形成してきたともいえる。

 

しかし、一生過去だけを消費して生きてはいられない。

 

虚構の世界は、現実のためにある。最終的には、現実の世界に戻らなければいけない。 

 

エヴァのことばかり考えて現実を見ない、虚構の世界にばかり佇む人たちに向けて、庵野はラストに宇部の実景を見せたことで、「みんなで現実に戻ろう」と伝えたかったのではないか。

 

人は時には、虚構の世界に浸かり、現実と距離を取る事も大切である。

公開して何年も経つ映像作品に留まり、前を見ないことも、時には大事かもしれない。

 

しかし、時間は無情にも刻々と過ぎていく。過去ばかり見てはいられない。

 

補完計画は原始に戻る計画であるが、そんな過去に浸らずに、現実を見ようということだ。

 

庵野による補完計画は、本作で終わった。

 

我々はもう、現実の世界で生きるべきなのだ。

ただ、エヴァンゲリオンのことは忘れずに、そっと胸にしまって。

※(3/9までは、エヴァが作られる前の世界で生きるべきと書きましたが、再考し↑の表現にしました)

 

それが本作の結末であり、庵野の望むことではないか。

 

本作で綾波が仕事を通じ、日常の生活を送ったように、我々も日々労働にいそしみ、日常の生活を送ろう。

 

綾波が「わたしはネルフでしか生きられない」というセリフは、おそらく「わたしはエヴァなしでは生きられない」という、エヴァオタクの気持ちを代弁したのかもしれない。

 

庵野は大人の責任を果たした。次は、我々の番だ。

 

エヴァと私の出会い(3.11追記)

 

多くの感想サイトでエヴァと自らの出会いを書いているモノが多く、私も倣ってみたい。

 

エヴァとの出会いは18歳、シンジに共感

 

エヴァを始めてみたのは18歳の頃だったと記憶している。

 

リアルタイムで放送した時はまだ幼く、シンジと同じ14歳の頃には見た記憶がない。

 

つまり、社会現象化した90年代の頃には、エヴァの存在自体を認識していたかどうかも怪しいほどだった。

 

高校生の頃、「涼宮ハルヒの憂鬱」を熱烈にプッシュしてきたクラスメイトがいて、見事にハマった。その流れから深夜アニメを物色し、その時に出会ったのがエヴァンゲリオンだった。

 

その時にはもう、世紀末思想やサブカル鬼畜ブームは薄れており、作品の空気感にマッチした時代ではなかった。

 

その代わり、シンジくんの心理状態と自分の気持ちがマッチし、エヴァに熱中した。

 

父親との関係のこじれ、大人の意見に反発したい気持ち、狂おしいほどのエゴイズム。

まだ10代で精神的な成長が止まったママの私にとっては、シンジは自分でしかなかった。

 

私だけでなく、多くの人がシンジと自分を投影したはずだ。

 

エヴァに乗ることは世界を救うヒーロー、まさしくウルトラマン。

 

しかし、庵野がハマったのは「帰ってきたウルトラマン」のため、ウルトラマン≒エヴァに乗る理由や自身の存在意義などを問いかける演出が多い。

 

それがそのまま、「自問自答」という庵野作品の特徴に昇華している。

 

私には、自問自答シーンが珍しく、他の作品では見れないもので、なぜか共感した。

 

今に比べて、子供の頃は自問自答することが多かったように感じる。まだ何者でもなく時間だけが膨大にあり、エゴイズムも高く、常に自分のことを考えている年だった。

 

そのため、自問自答を繰り返すシンジは自分そのものだった。

 

あの時のモヤモヤした気持ちを、エヴァは代弁してくれた。

 

だから当時、エヴァにハマったのかもしれない。

 

 

映画にハマり、興味の対象はシンジより庵野監督自身へ

 

20代になっても、変わらず深夜アニメばかりむさぼっていた。

 

しかし20代半ばになると、映画にハマった。

 

毎週のように映画館に通い、監督のインタビューや評論家の意見など、映画文化にドップリと浸かった。

 

当時ハーレムアニメばかり見ていた私にとっては、作り手の人生や趣向が色濃く反映された映画は大変魅力的だった。

 

様々な作品を見て監督のクセ≒作家性を見つけるのが好きで、監督が作品に込めたメッセージを調べるようになった。スクリーンの内側よりも、外側を見る視点が好きになった。

 

この視点は映画ファンにとっては珍しいことではないのだが、深夜アニメばかり見ていた私にとっては新鮮だった。

 

夢中になってスクリーンの外側を見つけるようになった。

 

そして2016年の「シンゴジラ」で、庵野が作品に込めたメッセージを強烈に感じ、今や庵野の作品を語る時には、庵野のことを触れずにはいられなくなった。

 

そして2021年の今、シンエヴァンゲリオンの記事を映画好きの視点から書き、大変満足した結果となった。

 

これも全て、庵野監督のおかげなのかもしれない。

 

リアルタイムではないが、十何年間エヴァンゲリオンを追いかけてきて本当によかった。

 

自分におめでとう、と言いたい。そしてこの記事を読んでくれた皆様も、おめでとう。

 

 

 

まとめ

 

今日が「式日」となり、エヴァンゲリオンという作品は原始に戻った。

 

そんな作品意図からなのか、鑑賞後は妙に清々しい気分でいっぱいだ。

 

いつもなら、エヴァ作品を見ると頭に「?」が沸き上がり、ひたすら考察サイトを調べてしまうのだが、本作ではそんな心配もない。

 

解説・考察記事を書く私としては、少し残念だが、あまり考察を調べる人も少ないのではないか?

 

皆が作品の意図を庵野が示した通りに解釈できるのであれば、考察サイトは不要なので、それはそれでよいのだが。

 

最後になったが、本作を見た感想などを、是非本記事のコメントに投稿して頂きたい。

 

あくまで私なりの解釈であり、自分なりの答えがあっても良いのだから。

 

また、本記事のコメントを読んで、ハッとさせられたことがある。

 

私はまだ、庵野総監督に感謝をしていない。

 

罪だ贖罪だとばかり言って、こんなに素晴らしい作品を観させてもらって、感謝しないとは何事だろうか。罪なのは、私の方だった。

 

庵野総監督、本当に本当に本当にありがとうございました。

 

本記事ではあまり触れませんでしたが、シン・ゴジラで体得したプレビズ→絵コンテによる制作手法、手書きとCGの巧みな連携、テーマカラーである白と内容のマッチング、360度回転させるガンアクション、どれをとっても最高級でした。

これが他の映画と同じ1900円なんて、もったいないくらいです。ジェームズ・キャメロンなら多分5000円くらい取ってます。

 

本当に、エヴァンゲリオンの終劇お疲れさまでした!

 

そして、、

 

シンウルトラマン、楽しみにしております!!!

 

 

いつも100点満点で評価を付けているが、今回ばかりは点を付けられない。

 

計測不能級に良かったということで、∞を付けたい。

/ 100点 

 

 

 

※参考

 

今回、昔からエヴァを見てきた身として感想を書いたが、逆に今までエヴァを見てこなかった方の率直な感想をあえて載せておきたい。

 

ニワカと自分では言っているが、結末の感想は核心を突いている。

 

 
 以上です! ご覧いただきありがとうございました!
 
 
 

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