- 「リチャード・ジュエル」のネタバレありで感想と解説(短評)
- あらすじ
- こんな主人公、こんなイーストウッド作品は初めて
- 新たな試みの中にも、イーストウッド映画の普遍的な面白さが根底にある
- リチャード・ジュエルという男に泣くしかない
- クリント・イーストウッドが描き続けるものとは?
- まとめ
「リチャード・ジュエル」のネタバレありで感想と解説(短評)
今回批評する映画はこちら!
「リチャード・ジュエル」
Tジョイプリンス品川にて「#リチャードジュエル 」鑑賞
— Blog_Machinaka🐻@映画ブロガー、ライター (@Blog_Machinaka) 2020年1月17日
イーストウッドが描いてきた"汚名を着せられた英雄"の中でも、最も大人しくボンクラ感溢れる主人公。世間とは全く異なる主人公のカタチを提示し、誰もが英雄になることの希望と危うさを伝える。誰もがリチャードジュエルになり得るのだ。
あらすじ
・「アメリカン・スナイパー」の巨匠クリント・イーストウッドが、1996年のアトランタ爆破テロ事件の真実を描いたサスペンスドラマ。96年、五輪開催中のアトランタで、警備員のリチャード・ジュエルが、公園で不審なバッグを発見する。その中身は、無数の釘が仕込まれたパイプ爆弾だった。多くの人々の命を救い一時は英雄視されるジュエルだったが、その裏でFBIはジュエルを第一容疑者として捜査を開始。それを現地の新聞社とテレビ局が実名報道したことで、ジュエルを取り巻く状況は一転。FBIは徹底的な捜査を行い、メディアによる連日の加熱報道で、ジュエルの人格は全国民の前で貶められていく。そんな状況に異を唱えるべく、ジュエルと旧知の弁護士ブライアントが立ち上がる。ジュエルの母ボビも息子の無実を訴え続けるが……。主人公リチャード・ジュエルを「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」のポール・ウォルター・ハウザー、母ボビを「ミザリー」のキャシー・ベイツ、弁護士ブライアントを「スリー・ビルボード」のサム・ロックウェルがそれぞれ演じる。
こんな主人公、こんなイーストウッド作品は初めて
イーストウッドの初監督作である「恐怖のメロディ」から追いかけている古参にとっても、近年のイーストウッド作品から追いかけている人にとっても、いかに今作が異色か分かるだろう。
端的に言って、今作は見せ場が極端に少ない。さらに言えば、絵的にカッコ良いキャラがいない。
イーストウッド作品といえば、どんな作品であってもアクションがあり、絵的な見せ場がある。しかし今作は、爆弾から逃げるその刹那のみ、見せ場らしい見せ場があるだけなのだ。余談だが、今作で起きた爆発は実際に事件が起きた公園で撮られているが、雷雨の影響により深夜4時に爆発を起こしたらしい。もしかしたら現実の方が、周囲の人は驚いたかもしれない。
爆破事件以降も、きわめて淡々と物語は進んでいく。英雄から一転して汚名を着せられ、サム・ロックウェル演じる弁護士と結託してリチャード・ジュエルは汚名返上の戦いに挑んでいくが、ここでも基本的に主人公は受け身である。
同じく実話ベースのイーストウッド映画「15時17分、パリ行き」や「ハドソン川の奇跡」とは、絵的な見せ場が全くない。
映画的にウケるあらゆる視聴覚効果を削ぎ落とし、役者の演技が際立つ稀有な作品であった、というのが正直な感想である。
しかし、役者の演技も素直に見入れるかというと、そうでもない。主人公のリチャード・ジュエルはアメリカにはどこにでもいる男、相棒のサム・ロックウェルは普通ならイケメンのナイスミドルなのだが、カッコ良いセリフを言う時には何故か短パンを履いていた。
主人公とその相棒を、限りなく庶民に近づけているのが今作の特徴である。
以上の通り、これまでのイーストウッド映画にはまずありえなかった絵的な面白みをあえて削ぎ落とし、平凡な男の身に降りかかった英雄の物語を描いている。
日本ではまず、絶対に通らない企画であろう。ここにきて新たな試みをするイーストウッドには、頭が下がる。
新たな試みの中にも、イーストウッド映画の普遍的な面白さが根底にある
絵的に見せ場がない、絵的にカッコ良いキャラがいないと散々けなしてしまったが、個人的には大満足である。いや、大好きだ。
これまで見られなかったイーストウッド作品と出会えたとか、冴えない男を主人公によくやったとか、物珍しさや普通の映画とは逆張りに攻めている姿勢を評価したいわけじゃない。
ただただ映画として面白い、ただそれだけである。
今作の面白さは、イーストウッドがこれまでの映画で培ってきた設定の巧みさにあると感じる。
初めに、「明快な対立構図の設定」があまりにも巧みなである。演出に入る前に、設定が勝利しているのだ。
イーストウッドの映画は、常に主人公と敵との対立が起きる。そして、その対立が生死をかけた壮絶な戦いを生む。往年の西部劇はもちろんのこと、「アメリカン・スナイパー」や「グラン・トリノ」など、近年の作品でも対立構図の巧みさが際立つ。
今作は銃も肉弾戦もないが、リチャード・ジュエルvsFBIという対立構図を作っており、リチャード・ジュエルの社会的かつ精神的な生死をかけた戦いになっている。
明快な対立構図だからこそ勧善懲悪なキャラクター像を作りやすい欠点もあるが、往年のアメリカ映画を見れる喜びもあり、イーストウッド映画なら気にならない。
明快な対立構図を作った上で、逼迫した状況下で主人公に二者択一の大きな決断を迫るのも、イーストウッド映画の特徴である。
やるか、やらないのか。イエスか、ノーか。今作では英雄なのか、犯人なのか、FBIに問い詰められる場面が予告編で使われているが、このシーンを切り取るだけでも観客はドキドキしてしまう。
だからこそ、イーストウッド映画の予告編はいつも面白く、気づけば劇場に足を運んでしまうのだ。
新しい試みをしているようで、実はイーストウッド映画の普遍的な面白さが込められている。
リチャード・ジュエルという男に泣くしかない
今作のタイトルが「リチャード・ジュエル」が示しているように、今作は彼の生き様を堪能する映画である。その一点にのみ、絞られていると言ってもいい。
ちなみに、「ハドソン川の奇跡」の原題は「Sully」であり、サリー機長の本名から取ってきているので、今作のネーミングが特段珍しいわけではない。
リチャード・ジュエルという男はボンクラで、見た目も性格も煩悩全開の男である。
刑事に憧れるも警備員止まりで、常に警察や検事や執行人に憧れを抱いている。
人一倍強い正義感を持ち合わせながらも、イライラすればクッキーを食べてしまい、お母さんと一緒に暮らし、ずっと夢見る少年でいるリチャード・ジュエル。
勇気ある行動で英雄となるリチャード・ジュエル。「15時17分、パリ行き」の3人組と同じようにも見えるが、今作は英雄になった後のボンクラ感がたまらない。
出版を持ちかけられた時のホクホクな笑顔、テレビに露出した後にサングラスを掛けるところ、お母さんと喜び合うシーンなどなど、観客の俺たちもやってしまいそうな行動の数々を、今作は惜しみげもなく提供してくれる笑。
そんな人となりが分かった上で、容疑者に一転してしまうのだから、感情移入せざるをえない。我々は容易にリチャード・ジュエルに憑依してしまうのだ。
彼がFBIに対して「ちゃんと証拠はあるのか」とズバッと言い放つあたりは、主人公の成長が感じられてカタルシスがあって良い。
しかし、個人的には戦争映画を見ている母親を一度は叱りつけながらも、なだめるシーンが一番泣けた。母が泣いてしまい、部屋に閉じこもってしまうが、リチャード・ジュエルは優しく語りかけ、なだめる。
「もう怒らないから、好きな映画見ていいから、ね、お母さん」
こんな優しい男に、爆破なんて出来るわけがないだろぅ。。。
と、リチャード・ジュエルの人格とは対照的に、彼が置かれている状況のアンビバレントさに悲しみを覚えてしまった。。
ここで俺は決意した、絶対にFBIをぶちのめそう!!と。
クリント・イーストウッドが描き続けるものとは?
今作を見てより確信を持てたのだが、イーストウッド作品は一貫して
英雄と「呼ばれた」男の物語
を描いているように感じる。
英雄に登りつめていく話ではなく、英雄になった男の苦悩と葛藤を描いていく作品が多いように感じる。
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まとめ
絵的な見せ場やカッコ良さがなくても、面白い映画は十分作れることを証明してくれた。
リチャード・ジュエルは冴えない男ではある。しかし、その姿こそが庶民であり、俺自身も豊満な体をしてることもあり、妙な親近感を覚えた。
東京オリンピック間近の今だからこそ、今作は見ておくべきである。誰もが英雄になれるし、容疑者になる可能性もあるのだから。
85点 / 100点